生ハム
「佐代子、佐代子はおるかー?」
わたしの父の声が私の部屋まで響いてくる、同時にまたか、とうんざりする気持ちが9割を占め。
そして残りの1割程度がなんだろう、という好奇心。
「なぁにー?」
わたしも負けじと、部屋から居間に届くような声で聞き返す。はしたないとは思いつつも、家の中なんだから気にしない。
だけど、しばらく待っていても、さっぱり返事が返ってこない。というのはいつもの父のやり方。
父は自分から何かしに動いたりすることがめったに無いのだ。
そして顔を合わせたときに急に用件を言い出すのだから、こちらとしては不意打ちになって返答に困ってしまう。
しょうがないなー、と独り言をつぶやきつつ居間へ向かうと。
居間で父はいつもの様にしていて、私にとんでもない言葉で不意打ちを食らわせるのだろう。
襖を開ける前に、どんな言葉がきてもいいように深呼吸をする。イチで軽く吐いて、ニイで吸って、サンで大きく吐く。
開けようとして、まさか男友達のことなんか聞かれたらどうしよう。
なんて思い返して、また深呼吸。イチ、ニイ、サン。
よし、準備オーケー。襖をガラリと開ける。
「佐代子、生ハムとはなんだ?」
それが、父の第一声だった。
わたしの父はかなり変わっている。自分の興味のあることにしか動かないのだ。
それだけならどこにだっている人かもしれない。だけど極端にもなると私の父のようになってしまうのだろうか。
父が情報を取り入れない結果として、家にはテレビがない。唯一の情報源となるのは新聞。
仕事のほうはというと、物書きの仕事をしている。結果、一日のほとんどを家で過ごすのだ。
外に出るのは担当の編集者と打合せに出るとき、毎日の散歩の公園。そしてたまにどこかへ出かけるとき。
日常の父の生活は、家、喫茶店までの道、そして散歩のコース。そこだけでほとんど完結してしまっているのだ。
その世界の中で書いているものといえば時代小説。
父はそんな風だから、家族であるわたしや弟はというと、すっかりと流行なんて言うものから取り残されそうになってしまっている。
さしずめ我が家は、情報の孤島。
そんな情報の孤島の主である父が何を言い出すのかといえば、生ハムとはなんぞや、ということである。
結局わたしは、いつだって不意打ちを食らわされてしまうのだった。
深呼吸が一回足りなかったかな。
「……生ハム」思わぬ問いかけに苦しんでいるわたしを尻目に、父はなおも続ける。
「うむ、生ハムだ」
「ええっと、ハムが生なんじゃないかしら」自分でもよくわからない答えを返してしまった。
「そうか、ハムが生なのか……」父はなにやらその言葉に深く考えこんでいる。
どうしよう、なんて思いつつも父はなおもわたしに質問をする。
「しかるに生ハムを焼くとハムになるのか?」
「いや…えーっと。生ハムとハムは違うと思うんだけど」
「むむっ、別物か」そしてより一層と深く考えこむ父。
「さすれば、あれか。生ハムを焼くと焼き生ハムになるわけか、いやしかし。ハムが生だと生ハムではない。
しかるにハムが生の状態はハム生になるのだろうか。
…ハム生は語呂が悪い、やはり生ハムか。となると生ハムと呼ばれているものは生生ハムと言うのが正しいのか。
これはなかなか矛盾した状態だ、ううむ」
なにやら哲学的な話になってきてしまったように思える。
どこかでストップをかけなければ、父の頭の中には間違った生ハム像が出来上がってしまう。
「父上、生ハムとハムは別物ですよ」
と、そんなところに思わぬ助け舟がやってきた。弟だ。
「ハムは最初から加熱調理がされているのに対して、生ハムは肉を塩漬けにしたようなものです。
しいて言うなら、生ハムは刺身、ハムは蒲鉾と言った具合でしょうか。
生ハムはそのまま食べたり、メロンに乗せたりして食べたりするようですね」
弟はそんな父の影響を半分ほど受け継いでいるのだろうか。歩く辞書とまで呼ばれそうな情報の取り入れ方。
何に対しても興味を持ってしまう。それが弟の性格だ。
だけど妙に古風なところまで父に似てしまったのだろう、弟はわたしを姉上と呼び、父を父上と呼ぶ。
弟の性格はいまだによくわからないところがある。
「刺身に蒲鉾……そうかそうか、清。感謝する」
「めっそうもございません、父上」
とりあえず一件落着、かと思いきや。父はまた何か思い至ってしまったようだ。
「生ハムが刺身、となると生ハムメロンは鯛の昆布締めのようなものか……むっ!
生ハムとメロン、どちらが刺身でどちらが昆布か? いや、生ハムが刺身ならばメロンが昆布か。
メロンが昆布とは奇妙な………清、生ハムメロンとは何だ?」
そこに既に弟の姿は無く、事の流れを見守っていたわたしと父がいるだけだった。
質問が私に向かってくる前に、母に頼んで今日の晩御飯に生ハムメロンを加えてもらおう。
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