一目惚れ・習作
燦々と朝日を浴びながら、私は駆け足で登校していた。空は青く、空気は涼しげ。足取りは軽やかで、スニーカーのゴムがアスファルトを踏みしめる感覚が心地よい。
というのが現実だったらどんなに良いことか。……現実はこうだ。
ばたばたとスカートをひるがえらせながら、私はあわただしく走っている。向かい風が髪を散らすし、革靴が擦れて踵が少し痛くなり始めてる。
息苦しい、何故? トーストなんか口に咥えてるからだ。いつもなら程よい焼け具合とバターの香りに大満足なんだけど、今日だけはこのトーストが邪魔でならない。寝坊なんかする私が悪いんだけど。
ちょっと自慢になるが、私は毎日寝坊するような生活はしてないし、朝起きられなくなるような夜更かしもいつもならばしない。
ただ昨晩だけは違った。学園祭が間近に迫っていて準備に追われ、おまけにその後にはなんと期末テストまで控えているという。私の学校の裏名物「学園祭後の悪魔」のせいだ。
展示の製作で放課後おそくまで残ったあとで、家に帰っての勉強はなかなかに辛い。慌ただしい準備やら勉強やらのせいで、目覚まし時計の電池を換え忘れてしまった。というのも寝坊の原因だが。
朝日が顔に当たって目が覚め、目覚まし時計を見るとまだ6時。寝直そうとおもって布団に潜る直前、枕元の携帯に着信の点滅ランプが目に付いた。どれどれ、と寝ぼけ眼で折りたたみ式の携帯をパカリと開けてみると、これである。
ははん、どうりで朝日がやけに明るいはずだ。なんて思う間もなく私はベッドから飛び起きていた。
鏡でサッと外見をチェックした後、取るものも取らずにといった勢いで家を出た。確かに手には鞄以外のものはなかった……が口にはトーストがあった。
これはあれじゃないかな、火事の混乱で貴重品じゃなくて枕を持って出ちゃう、みたいな。そんな風な混乱が私の中にもあったんだろうか? と思っていると、やっぱり空腹を感じる。
無意識的に食物を摂取しようとしてトーストを手に入れたのだろうか? 体はなんだかんだいっても正直なんだ。なんて考えているが、もちろん走り続けている。
体が火照ってきた。そろそろ汗をかき始めてくるころだ。汗をかくのだけは嫌だなぁ。今日は1限目は体育じゃない。体育は2限目なのだ。汗をかいてしまったら1時間目を汗でベタベタしたなかで過ごさなきゃいけない。
でもまてよ、出てくるとき、鞄の中身はチェックしたっけ? してるわけがない。体育の後の必需品、汗拭きタオルが入ってなかったら……これは事だ。
いいや、後のことは後で考えよう。とりあえずあの十字路のところからの最後の直線はスピードダウンしよう。もう走らなくても大丈夫な頃だろうし。
なんて思って十字路に出たとたん、横からの衝撃とともに私の視界は空を映した。衝撃で口から離れていくトーストが名残惜しく、空だけは、理想的に青かった。
これは転んだな、と転んでから気づいて、とりあえず上半身を起こす。幸いにもひどく痛む場所はない。しかし起き抜けにあまりに走ったためだろうか、すこしクラクラする。立ちくらみならぬ、座りくらみ。である。
単純にめまいと言え、というのはごもっともな話なんだけど。
揺れる視界の横からすっ、と手が差し伸べられる。そちらの方を見ると、学生服を着た男子が手を差し伸べている。私の学校の制服だ。
まず手に注意が行った、綺麗な手だった。年頃の女子もうらやむかのようなすらりとした指。その白さ。切りそろえられ、磨かれたかのような爪。傷ひとつない肌。
そんな手をまじまじと見ていると「大丈夫?」と声がかかった。ようやく、私は我を取り戻した。
「ご、ごめんなさい」と慌てて言いながら手を取り顔を上げるが。私はまたそこで言葉を失ってしまう。
トーストも、喉の渇きも、汗のことも。全部忘れてしまった。
私を立ち上がらせてくれた彼は、ふと落ちているトーストに目をやった。恥ずかしさのあまりに顔が熱くなって、緊張して汗がにじむ。
「あ、いや。その……それは」どうしよう。何て言ったらいいんだろう。嘘も言い訳も思い浮かばない。
彼は鞄から何かを取り出して私に握らせると、そのまま歩いて行ってしまった。私は何を言うことも、何かをすることもできずにじっとその後ろ姿を見ていた。耳にうるさいほどにドキドキと聞こえる鼓動は、きっと走ったせいだけじゃないはずだ。
彼の姿が見えなくなってしまうと、私は手にあるそれ、にようやく気づいた。
あんぱん。だった。

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