お題ものかき「カブト」 タイトル:カブトムシ

 寒い。もう3月だというのに、ちっとも春が訪れてくる気配はない。
  私はマフラーをしっかりと首に巻いてから、意を決して玄関の前に立つ。
  まったく、こんな時間におつかいを頼むお母さんが恨めしい。せめて昼間の暖かい時にしてくれればいいのに。
  ……なんでまた日が陰ってきた頃になって。
「寒い思いをしてきたほうが鍋がおいしくなるよ」というお母さんの言葉を真に受けてしまった私も私だけど、鍋は向こうからは来てくれない。仕方ない。

 意を決して外に出ると、想像以上に寒かった。これはいけない、カイロも追加しちゃおうかしら、なんて思ってしまうくらい。
  寒い中で迷っていると、地面に何かを擦る音が聞こえる。
  隣の家の女の子がチョークで地面に絵を書いていた。こんな寒いのに外で遊んでるなんて、子供は風の子、としみじみと実感してしまう。
「こんにちは、しこちゃん。寒くない?」
  しこちゃん。というのは彼女のあだ名。本名はなでしこ、だけど《なでしこちゃん》が短くなって《しこちゃん》になったのだ。
「こんにちは! ぜんぜん寒くないよ」と元気に言った。
「なーに描いてるの?」
  見るとY字の下にタテ長の楕円形がくっついているようなモノ。何だろう?
「あのね、カブトムシ!」
「へぇぇ……しこちゃん、カブトムシ好きなんだ」
  虫が好きな女の子というのも珍しい、蝶やらじゃなくてカブトムシならなおさら。
  父親似だろうか、八の字の勝気な眉が男の子みたいな彼女は宣言するかのように言った。
「あたし、大きくなったらカブトムシになるの!」

 しこちゃんのお父さんは昆虫学者、中でもカブトムシやクワガタといった甲虫を専攻しているらしい。彼女のカブトムシ好きもそこからなのだろうか。
  もっともお父さんとしては、優しくておくゆかしい。いわゆる《女の子らしい女の子》に育って欲しいんだと思うんだけど……当の本人は知ってか知らずか、このままでは元気でフィールドワークの好きそうな、巴御前もかくやというような子になりそうな予感だ。
  彼女の苗字は、大和という。

 晩御飯の湯豆腐をつつきながら件の話をすると、美奈が言った。
「それまた、大和さんところのお父さんももどかしいね」
「まぁ、自分の仕事のことだから、嫌いよりは好きになってくれたほうがいいと思うけど」
「それでも限度っていうのがあるでしょ。よりによって、カブトムシになるの! はちょっとねー」
「いいじゃない、可愛らしくて。それより美奈だってちっちゃいころ、何になりたいって言ったか覚えてる?」
  それを聞いて思い出したのだろうか、お父さんとお母さんは美奈ににやけ顔を見られまいと、うつむいている。
「え、なに? なんて言ったの?」焦った美奈は思わず箸を止めてしまう。
「おーしえなーい」
  姉の優越権を行使できるのはこういう時だけだ、思い切り楽しんでおこうっと。
「なによ、お姉ちゃんたら……! それなら私にも考えがあるんだからね」
「あーら、教えてもらおうじゃない、どんな考えなのかしらー?」
  すっかりお姉さまモードの私は調子に乗ってからかう。
  呼吸を整え、止まっている美奈。一体何をするのかと見ていると、止まっていた手が電光石火の勢いで動く。
「それっ、最後の湯豆腐いただきっ」
  おたまを急降下させてすくい上げる。気づいたときには遅かった、じっくりと見せ付けるかのようにスローモーションで湯豆腐が宙を舞って、見事お椀に着地する。
「あーっ! なにそれ、反則!」
「教えてくれないのが悪いんじゃないの!」
「私がどれだけ寒い思いをしてこの豆腐を買ってきたと思ってるの! ここはお姉さんに譲りなさい!!」
「しーらないしーらない!! 早い者勝ちだよーだ!」
  直後、私たちにお母さんの雷が落ちたのは言うまでもない。

 しこちゃんのことを笑える立場ではない……。



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