仮面

 私は決して二重人格ではない。ではないのだが・・・どうも自分の中に別の私がいるような気がしてならない。
  ならない、なんて生やさしいものではない。その私は確実に存在するのだ。
  そしてその私はだんだんと私の中で大きくなりつつある。

 きっかけは、そう。先週のある時だった。
  クラスメートとのたわいもない会話。くだらない世間話に花を咲かせ、話題といえばテレビのことや芸能人のこと。毎日同じ話題の繰り返し。吐き気を催すような化粧、言葉遣い、笑い方、エトセトラ。
  そんなものには既に慣れていた、いや慣れなければ過ごしていけない。
  だけど少しずつ、けれど確実に。私の苛立ちは蓄積されていたのだ。一滴の水滴が、やがてはコップを満たしてしまうかのように。
  私は学級委員なんていうものをやっている。やらされている、と言ったほうが正しいのか。言ってみれば都合のいい雑用係だ。
  ちょうど委員長の仕事という名目で雑用をこなしていると。クラスメートの何人かが私に話題を振ってきた。雑用をこなしている最中に、だ。
  あの時でなければ大丈夫だったろうに、なぜあのタイミングで声を掛けてきたのか。

 私には彼女らと話を合わせるというのはかなりの重労働なのだ。
  興味のないテレビをチェックし、情報を仕入れ。虫唾が走るような言葉遣いをして、笑いたくもないのに笑って。わざと彼女らに合わせて似合わない化粧をしてるのに、似合うよと言われる事の苦痛がわかるだろうか?
  聞きたくもないJ-POPの歌詞を覚えて、カラオケで披露することの苦痛がわかるだろうか?
  いや、普通はこんなことは苦痛でもないのかもしれない。みんな彼女らと同じようで、実は私だけが異邦人なのかもしれない。
  だが異邦人であると知れてしまっては、この学校という社会ではやっていけないのだ。だから私はまるで隠れキリシタンのように、偽って生活しているのだ。表面的な人格を仮面、ペルソナとして被り。
  その仮面についにヒビが入った。

 なんという言葉を掛けられただろうか。あまりよく覚えてはいない。
「トモ(彼女らは私をそう呼ぶ)ってxxxxだよね」
  そのxxxxが何だったか。彼女らにとっては褒め言葉のつもりでも、私にとってはどうしようもなく不本意で不名誉な言葉だったことだけは覚えている。
  全身が総毛だった。頭がズキズキとして、胃はチリチリと痛み、握り締めた手は震え、爪が食い込んだ手のひらからは血がにじみ出た。
  自分がコントロールできなくなる。頭が真っ白になり、何を言っていいのかわからなくなる。落ち着けと自分を言い聞かせても心は静まらず、それが焦りを増大させる。
  いつもの彼女らに合わせた作り笑顔が維持できなくなって凍りつく。
  それが気取られたのか、彼女らは不安な顔になり。口々にどうしたの、大丈夫? とよってたかって話しかける。

 落ち着くんだ私! 心の中で必死に呼びかけるが、事態はまったく変わらない。このままでは異邦人であることが露見してしまう!
  怖い! 初めてそう思った。怖い怖い怖い。坂を下る自転車のように、恐怖の勢いはどんどん加速していく。もはや、歯の根も合わない、膝が笑う。
  明日から私はどうなる? この社会で阻害され、抑圧され、畏怖され、嘲笑され、やがては消去される。
  助けて! 仮面はどんどんヒビが入ってく。亀裂はもはや私の素顔をさらけ出している。素顔の私は泣き顔だ。
  そこで声が掛けられた。

「助けてあげる」どこかで声がした。胸の奥に深く、強く響くような、だけども安心する。そんな声だった。その声で私は恐怖から引き戻される。
  誰なの、と叫びたくなる気持ちを抑える。これ以上素顔を晒すわけにはいかない。いや、ついには幻覚が聞こえたのかもしれない。
  私はこの場を乗り切る為なら何でもする気だった。神頼みすらした。悪魔にも魂を売る気でいた。
  私はお願い、助けて。と強く心で思った。

 とたんに、心が冷えていく。冷静さが戻り。意識はシャープになる。いつもよりも断然、集中できている。ふと見回すと彼女らは心配顔で私の顔を伺っている。
  どうやら先ほどの恐怖からそれに返るまでは、コンマ数秒の出来事だったらしい。
  瞬時にこの場を打開する何パターンもの科白が思い浮かび、それに対しての彼女らの反応を予測し、それに対しての返答、表情の作り方までが咄嗟に浮かぶ。
「あはは、ごめーん。ちょっとぼうっとしてた」
  私のいつもの作り笑顔を見せてやると彼女らは安心したようだった。その隙をついて私は先程の言葉に対応する。
  彼女らの笑い声が返ってくる。これで私の素顔は無かったことになった。仮面はいまや前よりも逞しくなっていた。
 
  それからというもの、私は以前ほど苛つかなくなり、よりこの社会に順応できるようになった。
  しかし同時に、あの私を救った声が頻繁にするようになった。
  それはまるで神の啓示だった。声を元に行動すると、彼女らの意図がよりわかるようになっていった。彼女らからの評価は一層上がり、楽になっていく。
  おかしい、と気づいたのはそれから数日のことだった。
  テレビの内容に興味が行き、ゴシップを好み、カラオケに進んで行くようになっている。

 もしや、私は。彼女らに汚染されてきているのか。

 焦りが生じる。違う! これは仮面だ。私の本心じゃない! そう否定するのだが、すぐさまあの声が聞こえてくる。
「もう大丈夫よ。大丈夫よ。大丈夫・・・・」
  その声を聞くと、意識にフィルターがかかったようになってくる。大丈夫なのか、そう。大丈夫なんだ。大丈夫、大丈夫、大丈夫・・・・・・・。
  だが私の本心はすんでの所で、全力で叫び声を上げて否定する。その声で私ははっと我に返る。
  私は声に支配されつつある! このままではどうにかなってしまう。それがどうしようもなく恐ろしくなり。私は家へと一目散に駆け出した。 私は一体どうなってしまうの!? 誰か、教えて!

 彼女らに接していないときは声は聞こえてこない。それがわかってから、私は学校を休んでいる。だがそれも今日で1週間にもなる。体調不良で通すにはもはや限界だろう。
  一日中ベットにいるのもひどく疲れる。そしてどうなってしまうのか不安になる。今の私は疲れている顔をしているだろう。自分でもげんなりするくらいにひどい顔をしているのではないか。そう思って鏡を見ようと思った。

 そこで、ピシリ。と硬いものが欠けるような音がした。ピシリ、ピシリと音はどんどん増えていく。音はすぐ耳元でしている。
  あたりを見回しながら、自分の手をみると、そこにはヒビだらけになった私の手があった。
  私はパジャマが裂けるのも気にせず体から力いっぱい引き剥がす。ビリビリという音がして布が散る。
  鏡の前には、全身にヒビが入った女が立っていた。あまりの光景に、私は床にへたり込む。
  目の前の鏡の中で、ボロボロと顔の部分が剥がれていく。恐怖の顔の私の顔が、剥がれていく。
  そこから出てきた顔は、なぜか笑顔。それは、彼女らの前で見せる作り笑顔だった。

 声にならない叫びが喉の奥から搾り出される。それでも鏡の私は作り笑顔だ。作り笑顔で悲鳴を上げている。
  涙をぼろぼろとこぼしながら、歪んだ笑いの表情をしている私。
  そこへ、声が聞こえてきた。
「サヨウナラ、イママデノワタシ」
  あぁ、私は仮面に支配されてしまったのだ。そう悟った。
「こんにちは、仮面の私」
  そう呟いた一言が、私の最後の言葉となった。

 アタシは二重人格じゃない。なんだけど、心のどこかに別のアタシがいるみたい。
  それはすっごい小さいアタシ。カラオケが嫌い。大切なアタシの友達も嫌い。アタシも嫌いらしい。
  だけどアタシはカラオケも、友達も、アタシ自身も大好きだ。
  友達からは、最近なんか明るくなったね。そう言われた。
  そうかなぁ? って聞き返すと。xxxxだよねって言われた。すっごく嬉しかった。
  だけど心のどこかがチクリとする。もしかしたら、別のアタシが泣いているのかもしれない。



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