隠れた名店
その店は東京のはずれにある。どこにでもあるようなソバ屋、出前もやっている。
少しうらぶれたような感じで、競馬場の近くにあるためすこし近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
店の親爺は昭和生まれの頑固者、眼鏡に禿頭の小柄で趣味は競馬、客が来ないときは耳に赤鉛筆を挟み、競馬新聞片手にTVを見ている。そんな人物だ。
典型的な場末の店ともいえるかもしれない。ザルが一枚450円、鴨南蛮が競馬客には旨いとされている。
だが、その店には裏メニューがある。
親子丼。地元で取れた鶏と卵を使い、具は鳥と卵だけ。
調理工程がシンプルなために、腕と素材の良さを試される料理だ。店の常連しか食べられない、しかもいい鶏が手に入ったときでないと。という条件付だ。
しかしその味は絶品といえよう。一口大の鶏には丁寧かつサッと表面に焼き目が入れられ、そこに蕎麦屋の命ともいえる秘伝の返しが入る。芳醇なカツオブシの香りが肉に凝縮され、それをふわっと卵が覆う。
卵は半熟、かといってやわらかすぎるわけでもなく。白身がドロッとしていることもない、絶妙な火の通し具合だ。黄身は味が濃く、見事に鳥とダシが調和している。
蕎麦屋の親爺は寡黙に、この親子丼を作り続けている。30年も。
だが、そんな親子丼すらも凌ぐ絶品の料理を出しているというのがこの店の常連の中での噂となっている。
どんなに話を聞いても。誰も食べたことの無いと言われる、それが幻のカツ丼だ。
一体どんなカツ丼なのか?
誰も味わったことの無いため、本当はそんなものは無いんじゃないかという話も多く聞く。だが、慄然とそこには存在するのだ。カツ丼が。
今日も一日が終わる。腕は一流、それでも名の知れることの無い。秘密の親子丼の蕎麦屋の一日が。
深夜、辺りは競馬場しか見所が無い町が眠りにつく。そんな深い闇夜が支配する時間、蕎麦屋に一本の電話が来る。
「カツ丼一丁。」
電話はその一言。しかしそれを戦いの合図のように、親爺はカツ丼を作り始める。静かに、だが烈火のように。暗い情熱を抱えたかのように、その風貌からは想像もできないような芸術的な調理で。すべての動作動作に魂が込められて、まるで命を削って作っているかのように。客には決して出さないという、世界一のカツ丼を。親爺はそうして作っているのだ。
かくしてカツ丼は創り上げられた。一体その芸術品を誰が食べるのだろう。
カツ丼を岡持にいれる親爺、その足で向かう。警察署へと。
こうして、警察のカツ丼はつくられているのだった。このカツ丼を食べた者は皆、出所した後も立ち直りまじめに働くのだという。魔法の更正のカツ丼がここにあるのだ。
そして親爺は蕎麦を打ち、親子丼を作り続ける。「カツ丼ないの?」という問いかけと共に。
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